以下、かなりネタバレしています。
芝居という面では一言。美しい舞台だった。以前からメガトン・ロマンチッカーの舞台はどの瞬間を切り取っても絵になると感じていたが、今回は特にそれが意識された演出だった。背伸びして描くことで力量不足が露呈する劇団も少なくないが、実力のある役者を揃えて、演技も満足のいくものだった。個人的には映像投射による演出効果はあまり好きではないが、許容範囲内だろう。
物語は重い。ある朝、14歳の少女が同級生をナイフで殺す。7年後、医療少年院を仮退院した彼女は保護監察官と共同生活しながら社会復帰し、更生をはかる。昔来たことのある動物園の跡地を訪れた彼女は、そこで自主映画を撮影している青年たちと出会い親しくなる。しかしネット上で彼女の居場所を探る者が増えて居住地を変える必要に迫られ、別れがやってくる。
実在の事件をモデルにしながら、あくまでもフィクションだ。しかしそこで描かれている事象は、現実にも繋がる大きな問題を提起している。以下に書くことは私の個人的感想に過ぎないが、この作品から感じたことをまとめてみた。
殺人という大罪を犯す人間は、そうでない人間とどこが違うのか。私達は暗黙のうちに、違いがあることを信じている。多くの場合、それは二つの要素に大別されるだろう。精神が狂気に支配され善悪の判断力を失っていたか、怨恨や金銭など殺したいと思う動機があったか。
狂気と動機の両方か少なくとも一方を持った人間だけがひとごろしになりうると、私達は思っている。だから殺人事件が起こるとその理由を知ろうとする。それが自分や家族や隣人にあてはまらないことを確認して、事件が自分にとって他人事であるという安心を得ようとする。自分には狂気も動機もない。だから自分はひとごろしにならない。
だが、狂気も動機も持たない少女がある朝ひとごろしに変わったら、この論理が根本的に壊れてしまうのだ。「モンスターとしての私」に登場する主人公に関しては、それぞれ重要なシーンで明確にこの二者が否定されている。
少女が兄と面会するシーンにおいて、彼女のあまりに幼い発言を聞いた兄はその精神を疑う。通常2年で終わるはずの医療少年院拘置が7年もかかったのは、重い病気だったからではないかと問う。しかし保護監察官はそれを否定し、彼女が立派な大人になっていることと、彼女の精神を疑う要素が無かったことを明言する。つまりここで、狂気の存在を否定しているのだ。保護監察官が終始「更生」という言葉のみ用い、決して「完治」とは言わないことによってもそれが強調される。
少女が被害者の姉と会うシーンにおいて、少女と被害者は単なる同級生ではなく、一緒に遊ぶことの多い仲良しだったことも明らかになる。そして、約束を破ったから殺されたと言われて世間に傷つけられてきたことを叫ぶ姉に対し、少女はわからないと答える。ただ、朝起きたら彼女を殺そうと思った、そうしなきゃいけないと思った、そんなことを述べる。つまりここでは動機の存在が否定されているのだ。
現実の事件に立ち返ってみよう。神戸の少年についても佐世保の少女についても、納得できる狂気も動機も見つかっていない。彼らを病院に入れて適当な病名をつけることは可能だろうが、それは私達に“自分とは違う”という安心感を与えるための詭弁にすぎない。
狂気も動機も持たぬ者がモンスターになりうるならば、私達は何を根拠にして、明日の自分がモンスターにならないことを信じれば良いだろうか。明日の自分がモンスターにならないことを、信じられるだろうか? それが、この作品が示した問いかけだと思われる。
また、この作品ではもうひとつの柱として「家族」が描かれている。4つの家族が登場するが、見事に対照的だ。加害少女の家族は彼女が理解できなくなっているが、飼育係はモンスターに餌を与え続ける。映画監督の家族がバンドの解散のように軽く別れていったのに対し、被害少女の家族は世間の風にさらされながらかたくなに踏みとどまり続ける。
苦難に直面した家族がそれを受け止めていくパターンを象徴するような構成だと思う。そのどれが理想形とも言えないし、たとえ理想形があったところで他人がそれを教授することはできない。それが、上記4つの他にもうひとつ登場した疑似家族つまり保護監察官と少女の共同生活が、家族にはなれないと喝破された理由ではないだろうか。
そして最後に、この物語には結末がない。登場人物は全員「これからも生きていく」。どんな人生であれ、いつか死を迎える日まで、結論はない。もしかしたらそれこそが、この物語の結論なのかもしれない。
2005/05/29-16:00
メガトン・ロマンチッカー「モンスターとしての私」
名古屋市東文化小劇場/前売券2000円
作・演出:刈馬カオス
出演:大久保明恵/時田和典/岸良端女/茂手木桜子/来々舞子/久川徳明/ヒート猛/織田紘子/浦麗