2011年09月23日

ミナモザ「ホットパーティクル」

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2011年春、私は原発に会いに行く。
その日、「私」はみんなから避けられている福島第一原発に自分を重ね合わせてしまった。
「いつ死んでもいい」が口癖だった「私」は「彼」に会いに行くことを決める。まるで片想いの相手に会いに行くように。そんなことして何になるのか。その先に何か答えでもあるというのか。そもそも、「彼」に会いにいくことはひとつの可能性を捨てることにはならないか。
原発まであと20キロ。

自分の人生を見失った愚かで不謹慎な女の旅が始まる。
(チラシ、サイトより)

 タイトルは放射能関連の用語だが、原発事故の話ではない。原発事故(と演劇と自分)について考えまくった作家の話だ。すべてノンフィクションだという。夜の公園で飲みながら語り合い、酔った勢いで福島に行こうと決意する。彼女の周りの友人達それぞれの事情とか、過去の恋愛とか、将来への不安とか、全部ひっくるめて無編集で提示したような舞台だ。そんなことまで晒さんでも良かろうにと思うくらい赤裸々に告白しているが、それによって彼女の心境が伝わってくる。

 それが、震災で「劇場の中より外がはるかに劇的になってしまった」状況に対して、瀬戸山美咲が選んだ表現方法。そこで表現されているのは、「今この時にこの場所にいる一人の人間の主観的な情動」だと思われた。

 会場に入ってすぐ、開演前の舞台上スクリーンに当日の日付が映写されていたのが象徴的だ。演劇はライブであり、映画や小説のように後から鑑賞されるのではなく、演じられた瞬間に受け取られる。演者と観客は時刻と場所を共有している。そこに意味がある。

 独立した作品として評価する限り、完成度の高いものではない。笑えるシーンや緊迫する場面もあったけれど、全体としてはがちゃがちゃとしてまとまっていない印象が強かった。直後のTwitterを見てると「賛否両論あるだろう」という意見を多数見かけたが、否とされるのはその完成度の低さだろう。

 けれど多分、この作品にとって完成度の低さはマイナス要素になっていないだろう。実際、否定的に語る声を目にした記憶はない。否定するタイプの人はそもそも観ないのかもしれないが。

 原発事故については数多くの「客観的な判断」がある。正しい判断をするためにそれは必要であり、科学的な議論の上で主観的な感情は無駄・無益なものとして切り捨てられがちだ。しかし私たちの「気持ち」は常に主観的なものでしかありえない。時事問題を描く演劇に求められるのは「事実の客観的な描写」ではなく「事態に直面した人々の描写」だろう。だとすれば、この表現は十分にひとつの手法として成り立っていたと思う。

 できることなら3年後、この内容を一切変更せずに再演してみてほしい。作品が一切変わらなくても、演者と観客は3年の時を経て変化しているはずだ。「作品が変化しなくても時代が変化することで作品の持つ意味が変化する」という体験ができるだろう。

 主役を演じた佐藤みゆきは最近とても魅力的な舞台を多数見せてくれる女優さんだ。福島出身とのことで、彼女の実家に行くシーンも劇中に登場する。しかしそれによって影響を受けたりせず、純粋に女優として与えられた役を演じることに徹していたのではないだろうか。彼女にはそれができそうな気がする。まあ、個人的に知ってるわけじゃないけれど。

2011/09/23-15:00
ミナモザ「ホットパーティクル」
SPACE雑遊/前売券3000円
作・演出:瀬戸山美咲
出演:佐藤みゆき/平山寛人/浅倉洋介/外山弥生/秋澤弥里/西尾友樹/大川大輔/中田顕史郎
舞台監督:伊藤智史 
照明:上川真由美 
音響:前田規寛
ドラマターグ:中田顕史郎
演出助手:中尾知代
宣伝写真:服部貴康
宣伝デザイン:高田唯
制作:印宮伸二
posted by #10 at 15:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 東京観劇2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
超観たかった…。
Posted by そかし at 2011年10月05日 10:44
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