2010年02月19日

精華小劇場製作作品「イキシマ」

ikishima.jpg

目を凝らせば見える 耳をすませば聞こえる
繊細にして大胆な 究極の“室内劇”
(チラシより)

 精華小劇場による製作作品として上演された本作は、脚本にマレビトの会の松田正隆、演出に維新派の松本雄吉を招き、出演者も実力派ぞろい。前評判も高く、非常に意欲的な企画だったのは確かだ。

 しかし私は、この作品をはっきり否定したい。賛否両論と聞くが、私は否に一票を投じる。こんな作品を発表することに意義があると本気で信じているなら、精華小劇場に未来はないと思う。なぜなら、この作品は何も成し遂げていないからだ。

 この作品は何を目指していたのか。チラシには以下のような文言がある:
かつて、舞台芸術はさまざまな芸術とつながっていた。美術、写真、音楽、または哲学や社会学など、お互いが緩やかに影響を与えあっていた。しかしそれぞれの分野で専門性が高くなり、お互いに越境することが難しくなった。今、芸術作品が普遍性を取り戻すためには、専門性を高く保ったまま芸術の分野を飛び越え、広い視野で社会を捉えることが必要となっている。舞台芸術作品が、遠い存在になってしまった現在、本作品は普遍性を取り戻し、現代社会を照射する作品となることを目指している。
 「現代社会を照射する」とはどういう意味なのか不明だが、そもそもこの試みと作品には決定的に欠けている点がある。それは、作品によって表現したかったコトは何か、だ。

 芸術というのは、手段であって目的ではない。美術も音楽も詩も演劇も、それによって表現したい「何か」が存在するから価値があるはずだ。もしそういう「何か」がないなら、それは“芸術”ではなく単なる“技術”だ。優れた芸術作品は、観賞者に何らかの変化を与える。さもなくば存在価値がない。松田正隆と松本雄吉は本作で観客にどのような変化をもたらしたかったのだろうか。

 少なくとも私にはイキシマから何も伝わってこなかったし、何を伝えようとしているかも読み取れなかった。私に見る目がないだけかもしれないが、見る目がある人にしか伝わらないなら、それこそ「遠い存在」と言うものではないか。

 この作品を構成している個々の“部品”はどれも上質だったと思う。役者はいい演技をしていた。舞台美術にも圧倒された。映像も音も光も魅力的だった。しかし全体像が意味不明なのだ。いわば、黄金のタイヤとプラチナのハンドルを付けた自動車のような印象。

 比較的よく劇場へ通っている私でさえこの調子なのだ。もし舞台芸術を観たことのない人がイキシマを観劇したら、どう感じるだろう。ほとんどの場合、「なんだかスゴイけど意味不明」となるのではないか。それで舞台芸術はどんな価値を持つと言えるのだろうか。演劇は現代社会にとって必要なものだと主張することができるのだろうか。

 神との対話を目指すなら客席は不要だ。現代社会における舞台芸術の役割と可能性は何か。社会はそこに何を求めているのか。説明はいらないが、次の作品では納得できる回答を示してほしい。

2010/02/19-19:00
精華小劇場製作作品「イキシマ」
精華小劇場/前売券3500円
テキスト:松田正隆
演出:松本雄吉
出演:芦谷康介/大熊隆太郎/岡嶋秀昭/沙里/金乃梨子/高澤理恵/速水佳苗/宮川国剛/宮部純子/山下残


posted by #10 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 関西観劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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